今からおよそ500年前、石垣島を舞台にした「オヤケアカハチの乱」が起こりました。
八重山の英雄とも語り継がれる豪傑オヤケアカハチ。
なぜ琉球王国から3000人もの精鋭がこの島に送られたのか。歴史の謎と浪漫を求めて、アカハチの碑と像を訪ねてみましょう。
観光
2015.11.30
writer : 光森裕樹
今からおよそ500年前、石垣島を舞台にした「オヤケアカハチの乱」が起こりました。
八重山の英雄とも語り継がれる豪傑オヤケアカハチ。
なぜ琉球王国から3000人もの精鋭がこの島に送られたのか。歴史の謎と浪漫を求めて、アカハチの碑と像を訪ねてみましょう。
オヤケアカハチの碑と像は、市街地と空港を結ぶ道の途中にあるため、気軽に立ち寄ることができる観光スポットです。
市街地中心部からは車で10分ほど。大浜公民館前を通り、大浜小学校のとなりの崎原公園に向かいます。
碑と像は少し離れた場所に建っていますが、まずはオヤケアカハチの碑に向かってみました。碑は崎原公園の片隅のひっそりとした場所にあるので、見逃さないようにご注意を。
緑の多い崎原公園の風景を収めた一枚です。こちらの写真の中にすでに碑が写っているのですが、お気づきになりましたか?
茂った緑の中に「オヤケ赤蜂之碑」「古乙姥(くいつば)之碑」と書かれた2基の石碑が建っています。
15世紀後半の人物であるオヤケアカハチは波照間島に生まれ、群雄割拠の時代である石垣島の大浜近辺に居宅を構え、大浜村の酋長的な役割を果たしていました。
碑文によると、琉球国王による祭祀の禁止を信仰の弾圧とし、アカハチが島民の先頭に立って反旗を翻したのが1500年。残念ながら琉球国王の中山尚真王からの理解は得られず、送り込まれた中山軍の精鋭3000人に対して奮戦するも、討ち取られました。世に伝わる「オヤケアカハチの乱」の物語です。
アカハチの碑に寄り添うのは妻であった古乙姥の碑。古乙姥は、アカハチとは敵対関係にあった長田大主(なーたふーず)の妹。政略結婚としてアカハチのもとに嫁ぎましたが、兄の企みには加担せず、アカハチへの理解を示して支え続けました。その古乙姥も乱の中で命を落としています。
崎原公園から大浜公民館の方へ歩いてみましょう。
いくつかの御嶽が集まる中に、オヤケアカハチの像が建っています。
アカハチの碑は1953年に建てられましたが、こちらの像はアカハチ没後500年にあたる、2000年に建てられた比較的新しいものです。観光案内の本には、碑よりもこちらの像の方がよく紹介されているかもしれませんね。
像の真下に来てみました。体躯に恵まれていたとされるアカハチの迫力のある姿に圧倒されます。
アカハチが村民を率いているときのようすを像にしたものでしょうか。鋭い眼光と大きく開いた口が印象的で、今にもその声が聞こえてくるような感じがします。
アカハチの像が指さす先には、宮良湾から広がる太平洋が見えます。まるでアカハチの声に導かれるように、浜辺まで歩いてみました。
500年も前の出来事であるため、オヤケアカハチやその乱についてははっきりとしていないことも多くあります。
祭祀の禁止が乱の発端となったとする説もあれば、重税に対する怒りを発端とする説、さらには、島の覇権を巡っての闘争が本来の目的であったと考える説もあります。琉球王国や、長田大主に代表される石垣島の他の権力者の視点で語るとき、アカハチはまた異なる表情を見せるのかもしれません。
歴史の解釈がさまざまであるからこそ、そこに浪漫が生じます。
ひとつだけ確かなことがあるとすれば、その乱から500年がたった今でも、石垣島にはオヤケアカハチの碑と像があり、
大切にされているということです。
スマートポイント
ライターのおすすめ
周囲の飲食店は少なめですが、甘いものが食べたくなったら老舗「ニッコー製菓」がおすすめ。ショーケースに並んだ洋菓子は、店内でも食べることができます。大浜公民館から南西方向に進んだ先にあるJAの向かいです。
光森裕樹
歌人。様々な土地を旅する中で石垣島に惹かれて移住。のんびりとした豊かな時間を感じるための情報をお届けします。