島に遊びに来られた方に「唐人墓(とうじんばか)」に行きましょう、と提案すると「お墓を見るの?」と誰もが不思議な顔に。
確かにお墓ではあるのですが、島では珍しい極彩色の飾り屋根をじっくりと見ることができます。
川平方面に行く途中にある便利な場所ですので、立ち寄ってみましょう!
観光
2020.01.10
writer : 光森裕樹
島に遊びに来られた方に「唐人墓(とうじんばか)」に行きましょう、と提案すると「お墓を見るの?」と誰もが不思議な顔に。
確かにお墓ではあるのですが、島では珍しい極彩色の飾り屋根をじっくりと見ることができます。
川平方面に行く途中にある便利な場所ですので、立ち寄ってみましょう!
唐人墓へは、島の市街中心部から車で15分ほどで行くことができます。周辺にはいくつかのリゾートホテルがあるため、宿泊先から徒歩で行ける方も多いかもしれませんね。
市街地からは、海際の道を観音崎灯台方面に進みます。灯台が大きな目印となるので迷うことはないでしょう。
道路を挟んだ向かいの小高い場所にお墓があります。
階段を上がって右手にある六角堂の向こうに、色彩鮮やかな建造物が見えてきました。
2体の獅子像の先に建つのが唐人墓です。中国の廟(びょう)を思わせる細やかな造りに、本当にお墓なの?と驚かされます。
このお墓には、19世紀中ごろの中国福建省出身の128人の魂が祀られていますが、そもそも、どうしてこの島に中国の方達のお墓があるのでしょうか?
1852年、苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者およそ400名が、厦門(アモイ)からカリフォルニアに送られる際、船中での非人道的な扱いに対して蜂起しました。船は進路を変えて台湾に向かうも、石垣島の崎枝沖で座礁してしまい、多くの人々が島に上陸しました。
苦力を追って米英の兵船が三度にわたって来島する中、琉球王府と島民は島へとたどりついた人々に食料を提供するなど、温かく人道的に迎え入れたとされます。
追っ手の武装兵による銃撃や疫病のために死者が続出し、関係各国の交渉の結果、約180名ほどの人々が琉球王府の護送船で福建省へと返ることができました。
残念ながらその命を異国の地で落とすことになった人々のお墓は、第二次世界大戦後まで、冨崎一体に点在していましたが、多くの人々の支援のもとに一箇所に集められ、1971年にこの唐人墓が建てられたというわけです。
お墓とは思えないほど賑やかな飾りの裏には、悲劇的な歴史が隠されていたことがわかります。
墓の裏側に回ってみました。飾りは裏側もしっかりと作りこまれています。こちらは、三国志がモチーフのようですね。左から順に、張飛、劉備、孔明、関羽の色鮮やかな飾り像です。
壁面には、建立にあたって寄付をされた人々や団体名が記録されています。目を凝らして寄付金額を見てみると、単位が「円」ではなく「弗(ドル)」であることがわかりますね。このお墓が建てられた1971年は、沖縄が返還されるちょうど前年でした。
現在は、人々が自由に国境を行き来できるいっぽうで、文化の違いによる気持ちのすれ違いも生じやすい時代といえるのかもしれません。
苦力の蜂起から150年以上たった今でも、事件の悲劇的な側面と人々の思いやりを感じさせる側面の両方が、この石垣島に確かに刻まれていることに、なんだか胸が熱くなります。
お墓のすぐお隣りのお店では、ちんすこうや黒糖を用いたお菓子類を買うことができます。製糖工場「サーター屋」では、昔ながらの黒糖作りを見学することも。
道路の向こうに建つ、観音崎灯台にも寄ってみましょう。海を見ながら園内を歩くと、道端に猫がのんびりと寝転んでいました。島の海沿いらしい光景です。
かわいらしい灯台にはすぐにたどり着きます。そこから唐人墓の方角を振り返って見てみるのもいいですね。
※こちらは、公開日が2016年3月14日の記事となります。更新日は、ページ上部にてご確認いただけます。
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光森裕樹
歌人。様々な土地を旅する中で石垣島に惹かれて移住。のんびりとした豊かな時間を感じるための情報をお届けします。