『もう一つの沖縄をたどる旅』vol.7でご紹介するのは、ふじ学徒隊と「糸洲壕(ウッカーガマ)」です。
学徒隊とは激しい地上戦がくりひりげられた沖縄戦で法的根拠がないままに「志願」という名目で軍隊に配属された旧制中学生のこと。
鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊に比べると存在があまり知られていないふじ学徒隊は陸軍の第二野戦病院に配属され、沖縄本島の豊見城と糸満で傷病兵の看護に当たりました。
観光
2016.05.23
writer : 福田展也
『もう一つの沖縄をたどる旅』vol.7でご紹介するのは、ふじ学徒隊と「糸洲壕(ウッカーガマ)」です。
学徒隊とは激しい地上戦がくりひりげられた沖縄戦で法的根拠がないままに「志願」という名目で軍隊に配属された旧制中学生のこと。
鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊に比べると存在があまり知られていないふじ学徒隊は陸軍の第二野戦病院に配属され、沖縄本島の豊見城と糸満で傷病兵の看護に当たりました。
国家と軍隊に様々な犠牲を強いられ、多くの住民が死に追いやられた沖縄戦。ふじ学徒隊は特殊なケースとして知られています。
特殊だという理由のひとつは、個人の意思が尊重されたこと。ふじ学徒隊を編成するにあたって、第二野戦病院の責任者、小池勇助軍医は対象となる積徳高等女学校4年生56人全員に入隊の意思を確認し、意思が確認された25名だけを看護を任務とする学徒隊として迎え入れたました。
もう一つは多くの学徒が生き延びたこと。従軍中に直接命を落とした学徒隊員がわずか2名だっということです(のちに1人が従軍時の体験が元で自死しました)。
ふじ学徒隊の生存率は92%。白梅(県立首里高等女学校)の52%、瑞泉学徒隊(県立第二高等女学校)の46%、ひめゆり学徒隊(県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部)の45%に比べると圧倒的です。
話を今から71年前に戻しましましょう。
1945年3月23日、ふじ学徒隊は第二野戦病院に配属されました。いつもの年ならば卒業式をすませ、新たな人生のステージを前に、期待に胸を膨らませていたはずの4月1日。アメリカ軍が沖縄本島に上陸しました。
ひと月ほどは平穏な勤務が続きましたが、5月になると野戦病院に運ばれてくる負傷兵の数は日に日に増えていきました。 病院の中、といっても、人の手で斜面に横穴を掘ってしつらえた人工壕でしたが、その中は腐敗した傷、患部の膿、垂れ流される排泄物の匂いが充満し、重苦しいうめき声や「痛い、痛い」という大きな叫び声が響き渡っていたそうです。そのような状況のもと、学徒隊員は看護や治療にあたっていました。
アメリカ軍の圧倒的な兵力を前に日本軍は次々に敗退。5月22日には司令部が置かれていた首里を放棄し、本島南部へと撤退していきました。5月27日に第二野戦病院も糸満方面を目指すことになったのです。
撤退にあたって、島尾中尉という軍医は、重傷の負傷兵を薬殺するように隊長から命令を受けました。けれども、元学徒隊員の真喜志善子さんの手記によると、島尾さんは青酸カリを置く代わりに水、乾パン、手榴弾を枕元に置き、「敵が来たら潔く戦え」と励ましてその場を去ったそうです。
梅雨の時期の逃避行は想像以上に過酷でした。砲弾が飛び交う中、糸満の糸洲壕にようやくたどり着いたそうです。
彼女達の到着よりもひと月ほど早い5月の初めに、糸洲壕を訪ねてみました。那覇空港から国道331号を南下して糸満の市街地を過ぎるとサトウキビ畑が両脇に広がるのどかな農村風景が広がってきます。南部病院を1kmほど過ぎて左手に入った所に目指すガマ(自然洞窟)はありました。
初夏の太陽が肌を焦がす地上から、慰霊碑の左手にある階段をおそるおそる降りていくにしたがって、あたりの空気が変わるのが感じられました。
湿り気をたっぷり含んだ重たい風が奥から青空を目指すように、ゆっくりとガマのなかから流れてきていました。
入り口付近は幅6〜7m、奥行きは10mくらい。天井から垂れ下がる鐘乳石から、水滴が時を刻むようにポタリ、ポタリと落ちています。真っ暗なガマの奥からは小川が流れる音が聞こえてきます。それ以外にも、音と音の間から、いろんな音が聞こえてくるようでした。
「頭の上からポタポタと滴が落ちる音や、滴が襟元に落ちる時は嫌な気持ちでしたが、静けさは極楽に感じました」
元学徒の名城文子さんは豊見城から移ってきたばかりの糸洲壕についてそう語っています。
確かに静けさが溢れかえっていましたが、たった一人で来たせいもあり、見えないものに対する恐ろしさでいっぱいで、静けさを楽しめる状態ではありませんでした。
しばらくすると暗闇にも目が慣れ始め、しだいに恐怖心も弱まってきました。壕の中に響く川の音を聞きながら、故郷を離れて沖縄に配属された軍医や衛生兵達はせせらぎが奏でる音楽の向こうに何を思ったのだろうかと思いを馳せる余裕さえ出てきました。
時計の針を再び71年前に戻しましょう。
初めは静かだったこのガマも6月17日ごろにはガマの存在が米兵に知れてしまい、手榴弾などの攻撃で数名の兵隊が亡くなったそうです。
それからは、催涙ガスを投げ込まれる日が続きました。この時期には衛生兵達は米軍に対して突撃をする「切り込み隊」に駆り出されるようになり、すべての仕事が学徒隊に回ってきたといいます。
ある日、火炎放射器や手榴弾などによる本格的な攻撃が加えられました。
そして、6月26日、小池隊長から解散命令が出されました。
「長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰りなさい。そして、凄惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」
隊長はその後、学徒隊の一人ひとりと別れの握手をしたそうです。
「衛生兵達も『アメリカ兵は民間人に危害を加えるようなことはしないから、安心して出て行きなさい』と勇気付けてくれました」
学徒隊の一人、大仲紀久子さんは記録集にそう書き残しています。
3〜4人で1組となって全員が壕を脱出し終わった後、小池隊長は壕の中で自ら命を絶ちました。6月27日のことでした。
「隊長の最後のメッセージがその後、生き延びる大きな支えになった」
ある学徒隊員が語っているように25人中23人が生き延びたのです。
「私達を最後まで隊長が責任を持って守ってくれました。指導者によってこれほど生死が分かれるものかと痛感します」
同じく学徒隊の一人、古波津照子さんは朝日新聞のインタビューにそう答えています。
自決する代わりに、生き残ることを選んだ彼女達は3カ月あまりの過酷な体験を、戦後、徐々に周囲に語り始めました。歳月が彼女達の傷を時間をかけて癒したように、命の恩人である小池勇助隊長の最後の願いもゆっくりと叶えられたのです。
ウッカーガマを訪ねた前の日に、ドキュメンタリー映画『ふじ学徒隊』を撮った野村岳也監督にお会いして、ふじ学徒隊の皆さんと小池隊長について話をうかがう機会をいただきました。
野村さんによると、小池隊長は豊見城の病院壕を撤退するときに島尾軍医がしたこと(しなかったこと)を知っていたそうです。その件について触れることも諌めることもなかったそうです。驚きなのは、移動先のウッカーガマでの最後の日、再び負傷兵の「処置」を島尾中尉に託したということです。
「それはなぜか?」
そして、「なぜ小池隊長は学徒隊の女学生をあれほどまでに生かそうとしたのか?」
死が生を圧倒したあの時代の沖縄で、生と死のせめぎ合いの中に何があったのか。それを映像化しようとしたのが野村さんです。
生き残った元学徒隊員が語りたいと思ったことに耳を傾け、聞き撮ったストーリーを48分の映画に綴り直した『ふじ学徒隊』はぜひ観ていただきたい映画です。
スマートポイント
ライターのおすすめ
ドキュメンタリー映画『ふじ学徒隊』はDVDの販売を行っている他、自主上映や、学校での平和学習教材としての提供も行っているそうです。詳しくは海燕社にお問い合わせください。
海燕社
沖縄県豊見城市字名嘉地60 C-2
☎︎098-850-8485
e-mail:info@fujigakutotai.com
HP: http://fujigakutotai.com
福田展也
目下の趣味はサーフィン・沖縄伝統空手・養蜂。心で触れて身体で書けるようになることが10年後の目標。