なぜ最初に旧海軍司令部壕なのか
まず最初に紹介したいのが、那覇空港から車で約15分の場所にある
旧海軍司令部壕。なぜこの場所を最初に訪れてほしいのか?
その理由は二つです。一つ目は、70年以上も前に生身の人間が
ツルハシやスコップを使って掘ったこの壕が、当時の様子をありのまま、
私達に伝えてくれるから…。
写真でもおわかりのように人の手で掘り進められた横穴の壁には、
ツルハシの跡がやちむん(沖縄の伝統的な陶器)の文様のように
びっしりと彫りこまれています。
光り輝く沖縄から沖縄の影へと目を転じる時、そのギャップは
あまりに深いことに気付かされます。その時、私達には時間の隔たりと
心の距離を埋めるために何らかの手助けが必要になるでしょう。
そして、私達が実際にあの時代にさかのぼろうとする時に、
タイムマシーンの役割を果たしてくれるのが、
当時の空気をそのまま保存しているこの壕だと思うのです。
あの時へタイムスリップ
大田実海軍司令官が本土の海軍次官宛てに送った電報
「沖縄県民かく戦へり」を現代文に訳したもの(クリックで拡大)
(当時16歳だった大田実海軍司令官の孫にあたる大田聡さんは
この電文で訴えていることに対して
1977年5月27日の追悼式で以下のように応えています。
〈前略〉
おじい様方がなくなられて早、三十二年の年月がたちました。
自決される前に海軍省宛に打電された
「沖縄県民かく戦えり、後世特別のご高配を賜らんことを」
という言葉を今改めて思います。
この30年余り「特別のご高配に」よって、
この沖縄が本当に平和で豊かな島になったとは決していえません。
おじい様の強く、そして深い意思を実践するのは、
むしろこれからだと思います。
戦争を知らない世代といわれる私達、若者や高校生が
平和を見つめ、しっかりと勉強して、おじい様の意思である、
平和で豊かな沖縄を実現するため努力したいと思います。
その努力をお約束して、悼辞といたします。)
二つ目の理由は、住民と軍隊との間で繰り広げられた悲劇が
この壕ではなかったと考えられていることです。南部のあちこちにある
自然壕の中で起こったことと、この旧海軍壕の中で起こったことの間には
大きな違いがあると考えられるのです。
そして、その違いこそが、初めて戦跡を巡る際の入り口として
大きな役割を果たすことになるでしょう。
もっとはっきりというならば、県外から沖縄を訪れる人にとって
罪の意識がいくぶん少なくてすむこの場所をまず最初に訪れることが、
沖縄戦を自分事として受け止める際に大きな助けになると思うのです。
4,000人の兵士が収容されていた壕は全長およそ450m
前置きが長くなりました。それではさっそく歩いてみることにしましょう。
この壕は1944年8月から5カ月ほどかけて、
日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた壕で、
旧海軍の司令部が置かれていました。
すべて合わせると450mあったといわれている横穴は
カマボコ型に掘り抜かれ、コンクリートと杭木で固められています。
米軍の砲撃に耐えながら、
持久戦を続けるための頑丈な地下陣地の中に、
4,000人の兵士が収容されていたそうです。
沖縄戦が終わった後は放置されていたため、
生き残った元日本兵が1950年代前半にここを訪れた時、
入り口はふさがれ、壕内は泥や水でいっぱいだったといわれています。
いく度にも渡る遺骨収集と復元作業をへて、1970年には
沖縄観光開発事業団(いまの沖縄観光コンベンションビューロー)
によって、司令官室を中心に300mが公開されました。
復帰前に沖縄を訪れた「観光客」の多くは、
沖縄戦で命を落とした元日本軍の将兵の遺族や戦友だったそうです。
旧海軍司令部壕の整備はちょうどその時期と重なっていることになります。
さて、施設内には慰霊塔、ビジターセンター、
司令部壕、売店が設置されています。
この日は1953年の建立された慰霊塔に手を合わせてから、
慰霊塔の脇にある入り口を奥へと進み、
企画展示が行われているビジターセンターの二階部分に向かいました。
家族に宛てて書かれた手紙が涙を誘う
旧海軍司令部壕資料館には軍服、武器、水筒、薬ビンなどの他、家族に宛てた手紙などが展示されている
一階に降りると、沖縄戦の概要をわかりやすく説明するパネル展示の他、
銃器や軍服など壕内で発掘された遺品や、将校が内地にいる家族に書いた
手紙などの実物資料が展示されている旧海軍司令部壕資料館があります
(ここまでは入場料は不要です)。
湿気の凄さを物語る壁の様子
資料館を出たところで入場料を支払って、いよいよ壕内へと進みます。
古い病院などの地下室を思わせる階段は105段、約30m。
階段を降りるにつれて、空気が変わっていくのがわかります。
壕内は、ところどころに補修がくわえてありますが、ほぼ当時のまま。
矢印に沿って、迷路のようにはりめぐされた通路を進んでいきます。
当時の様子がリアルに伝わる迷路のような壕内
司令官室の壁面には「大君の御はたのもとに死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり」
という大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されている
4畳ほどの広さの作戦室を過ぎた所にあるのが、
将校達が自決した時に使用した手榴弾の弾痕が生々しく残る幕僚室。
さらに進むと、木製のテーブルと椅子が置かれた司令官室が。
壁に残る手書きの歌とスローガンが生々しさを伝えています。
司令官室で自決した幹部の一人が「沖縄県民かく戦へり」の電文で知られる
大田実少将。沖縄の人々の苦労をひたすら伝えようとしたこの電文は
当時の軍部にあって異彩を放つものとして知られています。
司令室の奥にある、暗号室、医療室、下士官・兵員室を抜け、
出口へ向かう通路のあちこちには、当時を思わせる痕跡が見受けられます。
そのさらに奥にある出口からは太陽の光が差し込んでいるのですが、
それはとても意味深いものに思えました。
激しすぎる光と闇のコントラスト
出口を抜けると、正面には青い海がと白い飛行機が。
壕内とは真反対の明るさに心がくらくらします。
「百聞は一見に如かず」(ひゃくぶんはいっけんにしかず)
という言葉のように、旅の醍醐味は実際にその場を訪れ、
肌で触れ、自分の心で感じること。
旧海軍司令部壕で何に触れ、何を思うかは皆さん次第。
次に訪れる戦跡でどう変化するのでしょうか。
これもまた、十人十色。
沖縄の旅があなたにとって意味深いものになりますように。